恥しらざーの備忘録

恥知らずな僕が日々で悩んだことを書いています。

将棋指しは角ハイボール

困ったことになった…。

 

「将棋教えて!」

相撲先輩からこう言われたのだ。

 

僕の趣味のひとつに将棋がある。

ある、のだが、人に教えられるほどの腕ではない。

 

もちろん将棋のルールは知っている。

だが、将棋の面白さを全て解っているかと言われると、自信がない。

将棋の楽しさを知らない者に将棋の奥深さ、面白さを伝えられるだろうか。

 

僕はこれまで誰かに何かを教える、という立場になったのは1度だけである。

ジャズ研究会というサークル活動において、後輩相手にドラムを教えていた。

その時は、ドラムの面白さ、ジャズの奥深さ、演奏のカッコよさなどを教えられていたと思う。

 

当時はどう指導していただろう…。

まずは楽しんでもらうこと、演奏できてるということを体で実感させることが大切だ。

一曲まるまる、止まらずに演奏できるのだということを知ってもらうのだ。

そこからは、どう演奏すればカッコよく映るかなど”できている感”をどれだけ感じさせるかがポイントだと思う。

 

その後は、自分で勝手に上達していくものだと思う。

とにかく「演奏って楽しいんだ」と思わせることが長続きさせるコツだった気がする。

 

と、くれば「将棋って楽しい」と思ってもらうことが今回のミッションの鍵になるだろう。

将棋は音楽と違い、明確に勝ち負けが分かれてしまうもの。

やはり負けていて楽しいと思えるシーンはあまり無いだろう。

 

という訳で最低一回は負けることにする。

というか「詰み」までやる。

やはり相手の玉を詰み、ゲームオーバーにさせるということで達成感も得られるはず。

将棋というゲームは運の要素が少ないので達成感も一入だろう。

 

そして将棋は一回のミスが命取りになってしまうことも多い。

ミスをしないということも大事だが、初心者には「待った」3回くらいのサービスはあっていいのかもしれない。

 

そして対局を2回以上やるのであれば、最低1回は負けてもらうことになるだろう。

流石に何回も負けると、接待プレイが過剰になってしまう。

負けると悔しい、という気持ちも将棋にハマる気持ちを後押ししてくれるかもしれない。

感想戦も相手との気持ちの確認や、最善手の考察ができるのでやった方がいいだろう。

あーでもないこーでもない、と考えるのも楽しいものなのだ。

 

そして相撲先輩には僕と同じ位の実力になってくれると嬉しい。

同レベルの手合との対局が一番勉強になるし、何より楽しい。

 

 

当日のポイントは、

入玉しないこと(勝負が長引くだけ)。

なるべく玉は上に逃げない。

飛車と角を使わせる。

受け将棋を目指す。

棒銀を覚えさす(居飛車になる?)。

勝たせる(詰ませる)。

数の攻めを覚えさす(将棋は足し算)。

利きが多いほうが勝つ。

頭金の形を目指す。

と、以上のことに気をつけて指導することにしよう。

 

そして風呂上がりは角(換わり)ハイボールを飲もう。

おあとがよろしいようで。

 

ハム太郎ではないですよ

僕はマンガが大好きなのだ。

そんな僕が最大の敵に遭遇してしまう。

 

少女マンガである。

 

そう、少女マンガとはマンガであってマンガに非ず。

マンガの括りに入っているが、もう別ジャンルと言っていいだろう。

 

今までちゃんと読んだことのある少女マンガといえば『赤ちゃんと僕』のみ…。

ハチクロ』や『ちびまる子ちゃん』は少女マンガと言えるか怪しいのでここでは除外する。

だが『赤ちゃんと僕』も小学生男子が主人公だし少女マンガといえるのか…?

 

僕が少女マンガに対するイメージは、ページの端に作者の近況の日記のようなものがあったり、恋愛をテーマにしていたり、コマ割りが独特だったり…。

マンガとして他の作品と比較するにはあまりにも違いすぎると感じたため、自分の中で少女マンガは「少女マンガ」というジャンルにしてしまったのである。

絵柄も他のマンガと比べて独自の世界で進化したもののように感じる。

 

そして僕は少女マンガが嫌いである。

理由はシンプルに面白くないものが多いから

 

だがそう評価していたのも過去のこと。

未熟な僕が、少女マンガを理解できていなかったのではないか?

理解不能なものを「面白くない」と吐き捨てるのは間違っていないか?

そんな自問自答をしている中、高円寺からある一冊の短編集を借りた。

 

『ことのは』という少女マンガである。

 

「部活応援委員会」がコンセプトのオムニバスだが、「言葉」縛りと「恋愛」縛りを作者自ら課して描いた4作品が収録されている。

 

部活、言葉、恋愛と3つテーマがあるのかと思ったが、この作品集で最も大切にされているものは「言葉」である。

部活は物語の舞台になっているだけで、恋愛もストーリーの入り口にすぎない。

 

そしてストーリーだが、ここで終わるだろうな、と思ったところからもうひと展開ある。

なのに続きが読みたい、と思わせる最高のラストシーンがあるのだ。

ミステリーのように動き回るストーリーに終始振り回されてしまった。

 

まさか少女マンガに「騙された!」と思わされるとは思わなかった。

正に「良い裏切られた感」である。

 

そして必ずしもハッピーエンドで終わらないのだ。

主人公が思いを寄せる相手と両思いになる、というストーリーは1話しかない。

(そのお話も単調なストーリーでは決して無い。)

それなのに爽やかな読後感があるのは何故なのか。

恐らく、どのお話も主人公が何かに体当たりでぶつかり、木っ端微塵に打ち砕かれたからだろう。

全力投球したからこそ、結果に満足し、成長した姿が描かれている、というのが爽やかさの正体だと思う。

 

この爽やかさは日本橋ヨヲコの『バシズム』に共通したものがある。

まさか少女マンガにここまでヤラれるとは…。

 

麻生みこと先生、御見逸れしました。

 

 

災い転じて巫女とナース

僕は恋愛に向いていない。

以前ブログに書いた通りだ。

 

恋愛はさておき、結婚ではどうか?

結婚の方が難易度上がるじゃんバカなの?と言いたくなる気持ちは解る。

だが待ってほしい、恋愛と結婚は全然別のものなのだ。

好きな相手でなければ結婚できない訳ではないのだ。

もっと言うと、好きで好きでたまらない相手とでなくとも結婚できるということだ。

 

今は好きでなくても、付き合ってみれば好きになるかもしれない。

身も蓋もないが、敷居を下げてみよう、ということである。

 

だが、誰でも彼でもよいとすると、また広義になってしまう。

もっとゆるい縛りで決め事、条件をつけるならばなにか。

 

僕の結婚相手の条件のひとつは「ごはんを美味しく食べられるひと」だ。

ここで言うごはんとはお米のことでなく、食事という意味だ。

 

僕は食事を楽しむことが苦手である。

というのも、実家のごはんが美味しくなかったのだ。

 

僕の実家の食事は、基本的に家族が揃う。

家族アレルギーの僕にとって、それはめちゃくちゃ居心地が悪かった。

なので、空腹にならないってだけの量をかっ込んで、自分の部屋に引きこもってしまっていた。

今にして思えば、全く味なんてしてなかったのではないか。

 

あと単純に母親の料理が下手で不味かったということもある。

カレーをまずく作れるのだ。恐ろしい味覚の持ち主であった。

僕や姉が味の不満を漏らすと、舌が肥えている、と嫌味を言われる。

 

災い転じて福となすだが、そのお陰で大概のものは美味しく食べられる。

あとめちゃくちゃ早くものを食べられる。

なので1人だと食事の楽しみ方がわからないので、テレビを見ながらでないと食事ができないのだ。

 

という訳で僕は、一緒に食卓を囲いたい人かどうか、という視点を大事にしたい。

好き嫌いをあまりしない、ということにもつながるが。

 

恋愛も不得手なことだし、しばらくはごはんを一緒に食べるご飯友達を探すことにする。

 

 

定型文は馬鹿にできない

先生という者は凄いと思う。

何かを教える、教育する指導する立場の人はやはり尊敬に値する人物ばかりである。

 

僕も浅学ながら指導する立場を味わったことが何度かある。

大学のサークルが主な場所だった。

 

僕が所属していたのはジャズ研究会という音楽サークルである。

僕はドラムを担当していた。

学年が上がると後輩ができるものだが、音楽初心者も当然入部してくる。

その初心者にドラムを教えるのがなかなか大変だった。

自分の技術を100%自分の言葉で説明できないと、相手に伝わらないのだ。

説明できたとしても、相手がその技術を得られるとは限らない。

頭で理解して、反復練習をすることでようやく技術というものは身につく。

 

そして練習、訓練というものは地道な作業である。

楽しいと感じないと、辞めていってしまう子もいるので、褒めてあげないといけないのだ。

諸先輩方がしてきたように僕も褒めていった。

褒めるというのは、相手のことをよく観察しなければ褒められないのだ。

自然と、教える立場のものの方が、よく考え、よく観察するようになる。

 

すると不思議なことだが、教える立場の者の方が得られるものが多く、一番頭を使うのだ。

後輩から、あるいは生徒、子供から学ぶことがある、というのはそういうことだろう。

 

学校の先生なんかいっぺんに30人近くの生徒を教えているのだから、そりゃその分学ぶことも多いはずである。

 

まあ中にはろくでもないのもいるのだが、例外を除いて、先生と呼ばれる人は立派な人がほとんどである。

先人を尊敬せよ、とはそういうことなのだろう。

 

というわけで今まで僕に何かを教えてくれた人生の師たち、ありがとうございます。

 

You and the Night and the Music

僕は3兄弟の真ん中の子供である。

上に姉、下に弟が居る。

 

僕の家は中流家庭の豊かさがあり、望んだ習い事はだいたいやらせてもらえた。

幼い頃から姉はピアノを、弟はマリンバをそれぞれ習っていた。

そんな中、僕は音楽を習うことを希望しなかった。

 

今にして思えば、単なる反発心だったが、当時は音楽嫌いを自称していた。

保育園で歌を歌うことも好きじゃなかったし、流行りの音楽も聞いてこなかった。

姉は音楽を素晴らしいものとし、それを理解できないとは可哀想な子、と僕を見下し優越感に浸っていた。

より音楽を嫌いになってゆき、周りの友達と共有できる話題がひとつ少なくなっていった。

 

だが、音楽自体を聞いて嫌いになったわけではないので、仲の良い友達のお陰でBUMPOFCHICKENを聞くようになる。

そこからは普通に音楽も好きになっていった。

 

そして高校生になったとき、友達に誘われ、バンドを組むことになる。

そんなに情熱もなかったので、お金がかからなそうなドラムを選んだ。

そこからはめちゃくちゃに音楽にのめり込んでいった。

今では、様々なジャンルの音楽を聞いたり、時には演奏もする。

嫌いだった音楽が、今では人生の一部分になってしまっているので不思議なものだ。

 

更に不思議なことは、兄弟の中でも当時のバンドメンバーの中でも僕が一番音楽を続けていることだ。

 

だが、僕が友達の勧めに頑なになり、音楽が本当に嫌いになってしまっていたかもしれない。

意固地になることは損することがあるということを忘れず、これからも生きていきたいものだ。

 

あと、友達って宝物なんだなっとしみじみ思う。

人生なんてひつまぶし

楽しんで生きていきたいもんです。

 

これには万人が同意をしてくれるだろう。

なんの見返りも無く、過酷な道を歩みたい人はほとんど居ないからだ。

 

だが、「楽しい仕事がしたい」だと「仕事とは辛く、苦しいものだ。楽しい仕事なんて無いんだよ」と言う人が出てきそうである。

実際、仕事をしている人で「仕事が楽しみなんだ」という人はあまり居ない気がする。

 

この資本主義社会の現代日本では「生きること」と「仕事をする」ということはイコールで繋がれる。

ならば、「楽しく生きる」と「楽しく仕事をする」というのが同じことなのではないか。

 

「楽しい」と「楽をする」が同じ漢字を使うため意味を混同してるのではないか。

楽をしたい、だと全然話は変わってくる。

楽なことは一見よいことのように思えるが、そんなことはない。

 

安易な道を選ぶと人は堕落する。

遊ぶ金欲しさに銀行強盗を働く人間は安易さを求め、働きたくない→だけどお金は欲しい、という思考回路になるからだろう。

止むに止まれぬ事情がある人もいるのかもしれないが、多くは無いだろう。

 

さらに「安易さ」はすぐに「退屈さ」に変わるものだと思う。

ずっと休みがある生活をどう思うだろう。

僕はずっと休みなら良いなあと思ったことが何度もある。

だが実際、仕事がなく、ずっと休みというものをしばらく味わっているが、めちゃくちゃ暇なのである。

さらに時間がある、ということは不安感を募らせる。

 

将来の不安、健康の不安、人からどう思われているか、そのうち生きる意味とは?のような漠然としたものに変わってゆく。

考えなくてもいいことまで考えてしまうようにもなる。

実際、あまり忙しくなかった昔の哲学家なんかは、考えすぎて鬱状態になったり自殺してしまったりしている人も多い。

 

今の日本は働きすぎだと言われているが、度が過ぎなければそれも良いのだろう。

まあ度が過ぎてるから問題になっているのだろうけども。

 

僕は人生を死ぬまでの暇潰しだと考えている。

なので、どうせ同じ暇潰しなら楽しい方がいいだろう、と思うのだ。

 

まだその暇潰し方法は探せていないが、気長にやる予定です。

 

まあお金が無いという不安は消えませんが。

屠(ほふ)る人

この恥しらざーには夢がある。

 

毎度どうも、恥しらざーです。

この名前は未だに慣れませんが、仕方ありません。

 

ところで僕の夢のひとつに「屠殺したい」というものがある。

と‐さつ【屠殺】[名](スル)家畜類を殺すこと。屠畜。(goo辞書より)

 

牛豚鶏を食べたことのない日本人は少ないだろう。

だが、自分が食べる肉を自分でシメた事がある人はあまり居ないのではないか。

僕らの食卓に上がってくる肉は誰かが殺しているという事実。

 

僕はそのことを知識として持っているだけで、経験して実感を得たことがない。

 

僕はめちゃくちゃ動物が好きである。

動物と人間の友情なんてほぼ100%泣いてしまう。

 

そんな僕が、動物を殺すなんてできるだろうか。

でも食べている。

動物性のタンパク質は人体の貴重な栄養源である。

今更、ベジタリアンにはなれないだろう。

仮にベジタリアンになったとして、家畜用の動物が減ることは無い。

 

ならばせめて、一度でいいから「食べる」という責任を感じてみたい。

 

都会では手間が省けて便利なことが増えている。

だが、その代わりに必要とされる感性も失ってしまっているのではないか。

 

という訳で、屠殺をしたいなんて物騒なことを言い出したのだ。

 

できれば田舎に行って小さな畑を持ち、自分の食べる分だけの野菜を育てる。

リモートでできる仕事をして、それで稼いだお金で調味料なんかを買ったりする。

田舎なので、思いっきりスピーカーで音を出しても誰かが怒ることはない。

 

 

そんな生活を夢見ている。

 

『リトル・フォレスト』に感化された訳ではない。

…好きだけれども。