若林正恭『ナナメの夕暮れ』感想
僕が好きな芸人のひとつにオードリーがいる。
最初は若林だけが好きだった。
人見知りの代表格みたいな扱いをされているのに、『ゴッドタン』や『アメトーーク!』で狂気を見せる時があるからだ。
内に秘めた「芯」みたいなものがある芸人が好きなのだ。
そしてその「芯」は深夜ラジオの「オードリーのオールナイトニッポン」で遺憾なく発揮されていた。
というか深夜ラジオこそ、そういった人間の核となるものを出しやすい場所なのだ、ということを最近知った。
ラジオを聞いていくうちに、オードリーというコンビ自体を好きになったのだった。
そしてそのオードリーの若林が書いたエッセイこそが『ナナメの夕暮れ』である。
若林がテレビは勿論ラジオでも話していないことが書かれているだろう、と思い、本書を手にとった。
この本には若林が人生でぶち当たった壁や、その壁をどう乗り越えたか、が内容の中心になっていると思う。
「考え過ぎ」であり「マイナス思考」の若林が劣等感に苛まれ続けた男がその先に見たひとつの答えが書かれている。
当然といえば当然かもしれないが、オードリーの片割れ、春日のことも書かれている。
そこの書かれている春日には”敬意”が払われているような気がした。
考えすぎてひねくれている若林を、ときどきシンプルな価値観を持つ春日が正気に戻す、そんな景色が見えたのだった。
若林のことは勿論、春日のことも好きになるようなエッセイである。
本書のなかで、若林は自分のことを「自分探しをずっとやってきた人間」と言っている。
自分探しとは自分は何が好きで何が嫌いなのか、また何が得意で何が苦手なのかを判断するために、今までと違う環境に身を置いたりすることである。
思春期だとかモラトリアムである学生時代に多く見られるとされるものだが、若林はそれをずっとやってきた人間だと言うのだ。
自分探しといえば旅、というイメージがあるが、若林はそれを己との対話のみで自分探しを行っていたように思える。
僕が自分探しを年単位でやれ、と言われても、おそらくできないと思う。
自分を探すより、社会に自分を合わせて自分を騙した方が楽だからだ。
しかし若林は、社会に牙を剥いて、時にはボロボロになり、時には従順になり、自分なりの答えを探していっているのだ。
これこそがテレビで時折見せる「狂気」の正体ではないだろうか。
僕は若林のことをセンスがある芸人だと思っていた。
だが、本書には本当の天才に敗北した、と書かれている。
負けて、でも芸人を辞められない、そして自意識とも戦っていかなくてはならない、そんな汗と泥にまみれた、根性芸人だったのだ。
帯で西加奈子が若林のことを「自分の弱さを認められる人」と書いていたが、本書を読んだ後、正に若林の事を的確に表した言葉だと思った。
読み終わったあとは、泥まみれの思考の持ち主が書いたとは思えないような、全力でやった試合の後のような爽やかな気持ちになった。
甲田純正『1日で学び直す哲学』感想
哲学ってなんじゃらホイ。
29年間ずっとこう思っていた。
そしてその疑問を解消しないままだった。
そういう疑問を抱えたまま生きるのってカッコ悪くないか?と思いこの本を手に取ったのだ。
「1日で学び直す」と銘打ってあるが、ある1つの学問を1日で学び直すことは可能なのだろうか。
筆者は哲学の「旨味」を残しつつ、初心者でも読める程度に薄めたもの、と説明している。
事実、哲学家の名前ぐらいしか知らない僕が2、3日で読めるものとなっている。
「人は何故生まれ、そして死んでいくのか?」とか「人間とは地球を破壊する病原菌なのではないか?」みたいな文学的なものが哲学なのだろうと思っていた。
僕が本書を読んで出た結論が「哲学とは屁理屈である」だ。
そして哲学家とは「世界の成り立ちを言葉だけで説明しようとした人たち」と言えるだろう。
「この仮説を使えば、一応この世界のことは説明できますけど?」
みたいな事ばかり言っているのだ。いい歳した大人が。
この世は現代の科学では説明がつかないことがまだまだある。
哲学家たちは「この理論ならすべて説明がつく」と1つ1つ仮説を立てて世界の成り立ちを説明しようとしたのだ。
更に後続の哲学家はある仮説について「その仮説は間違っている」と批判をして、また新たに仮説を立てていっている。
答えは誰も知らない、答えがあることすら解らない。
そんな暗闇の中をひたすら地道に突き進んでいく、それが哲学家なのだと感じた。
だが、この世界はどうなっているのか、という疑問は誰しも一度は考えたことがあるのではないか?
屁理屈とはいえ、大いなる謎に立ち向かう姿は感服するとしか言えない。
この本のお陰でこれから哲学を勉強する気になれた。
でも哲学で腹は膨れないので程々にするつもりだ。
槙田雄司『一億総ツッコミ時代』感想
僕はお笑い芸人のラジオを聞くのが趣味だ。
その中のひとつがオードリーのオールナイトニッポンである。
ラジオ中に若林が一冊の本を紹介していた。
それが『一億総ツッコミ時代』である。
若林の説明が面白かったのもあるが、僕はこのタイトルが心に引っかかるものがあり図書館で借りたのだ。
この本は「マキタスポーツ」という15年目のお笑い芸人が書いた、いわば警告書だ。
日本はお笑いの、バラエティ番組の影響でツッコミ過多の社会になっているというのだ。
そして、「メタ目線」のツッコミが多い社会は息苦しい、と述べ、「ベタ目線」のボケに変わるよう勧めている本である。
僕はこの警告を見てドキッとした。
なぜなら僕は生粋のツッコミ気質だからだ。
僕は幼い頃から「ツッコミ芸人」と言われていた。
と言っても本当に芸人な訳ではない。
会話の中でよくツッコミを入れる様子からそう言われたのだ。
僕は会話術をマンガから学んだ。
『黒いラブレター』というギャグ漫画からお笑いのエッセンスを学び取り、トークスキルとした。
バラエティ番組経由で得たわけではなかったのだが、何はどうあれツッコミである。
この本はお前のような奴に書いたものだ、と言われているような気がしたのだ。
このマキタスポーツという人間は僕から僕をつまらない人間に仕立てようとしているのだろうか?
いやそうではない。
もっと面白い生き方はどうだろうか、と言っているのだ。
ではメタ目線のツッコミとはどういうものか。
メタ目線、もっと言うとマスコミ視点、だろうか。
インターネットの普及により、多くの人が物事について何か発言できる機会が増えた。
それで良いことも増えただろうが、同時に悪い影響も出ているのだ。
Twitterに誰かを誹謗中傷するような投稿が問題になっている。
何かを発表すると誰かからツッコミという名の誹謗中傷が飛んできてしまうのだ。
「無」から「有」を生み出すことが「ボケ」であるならば、そのことについてあれこれ茶々を入れることは「ツッコミ」に当たるだろう。
漫才におけるツッコミやバラエティ番組におけるツッコミは必要なものだろう。
それが仕事であり、役割だからだ。
ボケ単体のものよりツッコミがあることにより、視聴者が笑うポイントが理解できる。
だが僕は一般人であり、ツッコミをする必要がない。
それどころか、SNS上ではなにか問題があるといちゃもんをつける「ツッコミ」が多く、寧ろボケが足りないのが現状なのだ。
「ツッコミだけをいれていれば、安全な場所から他人を攻撃できます。」
この一言にハッとさせられた。
確かに僕は他人にツッコミを入れるときに「自分はイジられても面白く返せないから」という消極的な理由があった。
イジられて面白く返せないなら、また誰かをイジって安易な笑いを手にするのではなく、正々堂々と面白く返せるように努力しろよ、と言われたような気がしたのだ。
ツッコミというコミュニケーションは「ここに注目して下さい」という編集で、いわばメタ的な視点なのだ。
そしてプロのツッコミ芸人はツッコまれるかもしれない、というリスクを背負っている。
ハゲた頭の人が「お前ハゲてるやないか!」というツッコミをしてもそれは成立しないだろう。
漫才であれば滑るのはコンビの責任で、番組であれば出演者、編集スタッフ全員の責任になるだろう。
だが、現実世界、またはSNS上ではどうだろう。
滑ってもツッコんだ人間が損をすることはないだろう。
むしろ、ボケた訳じゃないのに恥ずかしい思いをし、更に滑った空気まで味わうという地獄が待っている。
現実に僕は、Twitterでは僕の中で肥大した「ツッコミ視点」がいるため、発言ができないでいる。
ではどうすればよいか。
簡単だ、ボケになればよいのだ。
現実でもネット上でもツッコミ過多でボケが足りていない。
ボケの需要が大きいのだ。
今更ボケにまわり、攻撃されるのは怖いと思う。
ボケの人からしたら攻撃する者がいなくなり、仲間が増える、ということになる。
そして今まで攻撃されてきたお人好しは、改めて誰かを攻撃しないだろう。
具体的にどういうボケがよいのか、今までツッコミだった僕にはそんな心配も出てきてしまう。
手軽なボケ、とくればやはり「ベタ」だろう。
今まではベタなことをやりたくなかった。
安易な手段に逃げているようでカッコ悪く見えるからだ。
そうやってもっと安易な「ツッコミ」に逃げ、笑いを取っているポーズだけして誰かを傷つけていたのだ。
滑ってもいい。世の中にはまだいっぱいツッコミが居るではないか。
そう、この本は教えてくれたのだ。
また誰かをツッコんで笑いを取った気になってしまっていたら、今度は書店で購入しようと思う。
不眠症患者の夜は、早い
ニートとは“Not in Education Employment or Training”のことである。
和訳すると「学生でもなく、就職しておらず、職業訓練もしていない者」のことである。
現在僕は持病をもっており、それの回復の目処が立ってから就職しようと思っている。
「トレーニング」を「闘病」と捉えるならば、僕はニートではない。
…捉えなければ僕はニートという事になってしまう。
日本では「働く意思を持たない者」という定義もあるようだが、定かではない。
僕はニート呼ばわりをされたくない訳ではないので、細かい定義はどうでもよい。
つまり僕は、将来的に働く意思がある、という訳だ。
「明日から本気出すわ。」というポーズに取られないためにも自分の立ち位置をはっきりさせておく。
僕の病気はADHDとレストレスレッグス症候群、及びそれが引き起こす不眠である。
ADHDの方は発達障害の一種なので、治る治らないというものではない。
レストレスレッグス症候群も完治することは難しいと思う。
だが、治療によって症状を軽減はできるだろう。
主治医が言うには、不眠による脳のダメージは継続的なもので、脳のダメージが回復しなければ症状は悪くなる一方だという。
脳のダメージが蓄積している状態では、せっかく就職したとしてもうまくいくはずがない、とのことだ。
正常な(健康な)睡眠ができてから、どういう就職先がいいかを決める予定なのだ。
完全なる睡眠がいつ頃までにできるかはわからないが、それから就職の流れはある程度の予定が分かるのではないか。
就職を一旦ゴールとして見て、健康体になってからの逆算は意味がありそうだ。
早速、計算して予定を立てよう。
おっと、もう寝ないといけない時間になってしまった。
完全な睡眠をしないといけない身は辛い。
明日から本気出すわ。
備えあればうれしいな
再三言うが、僕は家族アレルギーである。
自然と家族をこれ以上増やしたくないと考えるようになる。
僕のように不幸な子供は増やしたくないのだ。
あれ?というか僕は不幸なのか?
そんなことないな。
家族は嫌いだが、別に人生に絶望した訳ではない。
とは言え僕に子供ができるとしたら、同じ気持ちを味わってほしくないものだ。
という訳で、僕が親になったらすること・しないことを綴っていく。
まず、子供と仲良くなりたい。
僕は小さい子が大好きだ。ロリ的な意味じゃなく。
仲良くなるには、お互い対話が必要である。
知ったつもりでも、意外と勘違いだった、なんてことは誰とでもあるものだ。
子供にも話したくないことはあるだろうが、話す気があるのなら、できるだけ耳を傾けるべきだろう。
子供は親の所有物ではない、あたり前のことだが、これは常に意識して生活すべきだろう。
親は子に健康な生活をさせる権利と義務があるだけである。
それ以上のことは親の裁量に任せられるものだが、できる限りのことはしてあげたい。
…具体的な案が全く浮かばない。
それはそうだ。だって結婚もしてなければ、彼女もいないのだから。
そんなことよりまず仕事探せってこった。
実際に子供が生まれたらそんな余裕無いだろうと思って考え始めたのだが、どうやら僕は追い込まれないとやらない性格だったらしい。
今すぐに僕ができることは、子供ができたら考えないといけないことがあるだろう、という意識をどこかに持ちつつ生活することだけである。
高円寺解体新書
高円寺(仮名)とは僕の大学時代の後輩である。
このブログにも何回か出したことがあるので、流石にもう分かるひとも居るのではないか。
今日はこの高円寺という人物について語る。
高円寺は大学時代のサークルの一年後輩である。
僕と高円寺はジャズ研究会と言う音楽サークルに所属していた。
サークルの飲み会でお互いマンガが好きという話で盛り上がったのかなんなのか、結構仲良くなる。
そう、仲良くなりすぎたのだ。
今ではほぼタメ口で喋ってくるようになってしまっている。
高円寺という男は犬のように人間を上下関係で見るタイプの輩なのだ。
最近それがエスカレートして、僕に平気で暴言を吐いたりするのだ。
このところ、完全に僕を先輩として見ていないのではないか?
そんな考えが芽生え、最近、高円寺の態度に疑問を覚えたのだ。
確かに僕はカッコいい先輩ではないだろう。
サークルに居た頃は楽器の演奏があったので、後輩から尊敬されてもいたかもしれない。
だが、いま僕は無職。
舐められるのも当然かもしれない。
いや、高円寺とは職業で人間を判断する奴だっただろうか?
致し方ない理由があったのなら、現在無職である事に納得しないものだろうか。
恐らくだが、他の先輩が無職であってもタメ口になったりしないだろう。
引っかかったのは、とっさの一言なのだ。
高円寺に本を借りに部屋へ遊びに行ったときのことである。
あまりにも部屋が汚かったので「大掃除する気だったら手伝うよ?」と言った。
だが、「いいすわ、触られたくないし」と言ってきたので、
「いやまあそうだろうと思って黙ってたけど、もうひとりじゃどうもならなそうだからさー」と言ったら返す刀で「お前には言われたくない」と言い放ったのだ。
これ結構酷いこと言われてないか?
多分「もうひとりじゃどうもならない」のは僕の方で、その事に気づいてないの?
と言わんばかりである。
確かに、大きなお節介を焼いた。焼いたは焼いたが、ここまで言われる筋合いがあるだろうか?
高円寺とは先輩であれ、ここまで踏み込んできたら、こう言ってもいいよねという判断をするやつである。
ということは、僕はあいつにとっての越権行為をしてしまったため、あのような暴言を吐かれたことになる。
恐らくだが、お節介を焼いた一言であることは間違いない。
「1人では掃除もできないだろう」というような一言が気に入らなかったのだろうか。
それについては根拠がある。
あいつは引っ越しを3回くらいしているのだが、その一回目の引っ越しから開けてない荷物がいくつかあるのだ。
その事を言ったら「それはそうかも」と言っていた。
と、言うことは「お前には言われたくない」ということについては言い過ぎた一言であると思っているのだろうか。
ふと思ったのだが、あいつ俺のこと好きじゃないんじゃね?
そうだ、いくら先輩だろうと好きでもなく、尊敬もしていない先輩にお節介を焼かれたら僕も暴言を吐くかもしれない。
これはなんとなくしっくり来た。
しっくり来たので溜飲はすこし下がった。
どっちにしたって尊敬はされてないだろうということが発覚してしまったが、その考察はまた今度。
Dr.ペッパーが好きだと言うからドクペ(仮名)
僕はよく人を分類分けにする。
血液型でA型は几帳面でB型は大雑把とか、その程度のものだ。
血液型性格判断に根拠はないし、人間の性格を4つに分けられるとも思っていない。
ただ、分類分けは楽しい。
血液型性格判断もみんな楽しんでいるだけで、本気にしている人はあまり居ないのではないか。
僕が最近考えている分類分けは「右脳派か左脳派か」である。
右脳派は感情的な人間のことだ。
物事を論理よりも感情を大切に生きている人はが当てはまる。
愚痴を言い合ったり、共感を大事にしているのも右脳派の特徴である。
左脳派とは理性的な人間のことだ。
感情に揺さぶられにくく、自分の論理で生活している人が該当する。
人の悩み事に解決案を提示してくるというのが特徴にある。
以前もこのようなことをブログに書いた。
そう、僕の周りの人間は愚痴を聞けない奴らだ、という記事だ。
あのときのことを、まだ根に持って考えているのだ。
愚痴を聞けない、解決したがりは左脳派。
問題をそのままにする、前に進めない者は右脳派。
と言い換えることもできる。
だが僕は論理的な人間のつもりである。
実際、左脳派のような人間からシンパシーを得ることもある。
では僕は左脳派か右脳派のどちらか。
僕は右脳生まれ左脳育ちの人間である。
ややこしい。
そう、実にややこしい人間なのである。
つまり、元は直感や感性を大事にする人間なのだが、論理的な生き方を選んでしまった人間、なのだ。
もともとは右脳派なので野性的で直感的な行動をするのだが、左脳的な方法で生活していたので、左脳派の人間との方が話が合うのだ。
しかし、共感を大事にする右脳派の気持ちもわかる。
ハイブリット、と言えば聞こえはよいが、どっちつかず、ということでもある。
僕と同じ右脳生まれ左脳育ちの人間にドクペ(仮名)さんがいる。
そのせいか、自分でも自分がわからないということが多く、生きづらいのだ。
そう、僕が行う分類分けとは人間観察をしていると言うよりは「自己観察」をしているのだ。
自分が生きづらいのは何故か、それを解明して、なるべく生きやすくするためである。
僕は最近、右脳派と左脳派という分け方をして、自分は理論派だと思っていたが、実は感覚派だったと判明したのである。
それからは何故生きにくいのか、生きやすくするための課題は何かを見つけている。
それが具体的にわかっていれば、これから悩んだとしても、立ち止まらなくなり、自分の故障を自分で直していく事ができ、人生もうまく回っていけるのではないかと考えている。
このブログがその助けになると幸いである。
これからも面白い分類分けがあったら、また紹介するだろう。